死ぬとき笑う

だから、自分に正直に、自分のために。

試合では打ち方のことを考えてはいけない

今からちょうど1ヶ月前「1ヶ月間の実験を開始する」と書いた。

 

その結果とそこからわかったことを書く。

 

実験内容は以下だった。

 

「 試合中は、下半身を深く準備して、相手と調和するように淡々と、すべてのショットを意図して打ち続ける。それ以外のことは考えない」

 

結論から言うと、間違いなかった。試合中はこれに尽きる。

 

実験途中、「相手と調和するように」という表現は「相手の出力に合わせて」に変わった。その方がより具体的で間違うことがなくなる。

 

「下半身をしっかり準備して、相手の出力に合わせて淡々と、すべてのショットを意図して打ち続ける」

 

試合中にやるべきことはこれだけだ。

 

ただし、意図には無限の選択肢がある。相手によって変わる。もちろん、出力も相手によって変わるため、自分の出力も相手によって変わる。下半身の準備も相手のボールが速ければ素早くできなくてはいけなくなる。

 

これだけと言ったが、これは奥が深いため簡単ではない。

 

テニスというスポーツは、「誰とやる時も同じボールを打つ(打てる)」とか「いつも同じことをやれば勝てる」といった単純なものではないということでもある。

 

大雑把に見れば同じことができるし、それが自分のプレーで、それを変えてはいけない。しかし、相手が変われば調整は必ず強いられる。

 

それでもベースとなるこの考え方、方針はいつも同じでいい。試合中上手くいかなくなったらここに立ち返る。

 

「下半身をしっかり準備して、相手の出力に合わせて淡々と、すべてのショットを意図して打ち続ける」

 

逆に言うと、試合中は、それ以外の例えば打ち方や身体の使い方は考えてはいけないということだ。

 

この実験をする前までは試合中に打ち方に囚われる時間帯があった。

 

これを話すと「その域に達している人にしかできない」と言う人がいる。つまり、技量が足りないと考えているのだ。

 

しかし、私の経験から言うとそれは間違っている。そう言っている人たちは皆、これを取り組む技量があるのにいつまでも技術すなわち打ち方に囚われている人たちだ。

 

それは思い込みだ。呪縛と言った方がいいかもしれない。

 

だから、この域に達するための努力より、その呪縛を解く努力をした方が早く強くなれる。

 

そして、「この域」はとても低いところにあると言える。以下に具体例で説明する。

 

練習を楽しむ日々を過ごす初心者がいたとする。彼らが「少し打てるようになってきたから試合をしよう」と考え、試合を始めたら、それが「この域」だ。

 

考えてみてほしい。

 

初心者同士でシングルスの試合をしていたとして、ひとりは打ち方のことを考えずに、今の相手の技量やその他の能力と自分のそれらを踏まえて、ポイントを取るためにどうすればいいかを感じ取り、意図してボールを打っていて、もうひとりはポイントを取ることはど返しに打ち方のことばかりを考えていたなら、前者が勝つ可能性が高いのは明らかだ。

 

技量もその他の能力もその試合中には変えられない。つまり、試合は今の手持ち(身についている技量)で戦う以外ない。

 

後者がやっていることは、勝つことがゴールの試合中にそのゴールを忘れて技量を磨こうとしてしまっているのと同じだ。

 

だから、試合では打ち方のことを考えてはいけない。

 

フォームの呪縛にかかっている人は、試合の本質を理解できていない人で、試合で練習してしまっている人だ。

 

テニス歴29年にして、ようやく気づけた。

 

おそらくこれは、私の今の最大の課題である「試合勘」を磨くためのスタートラインとも言えそうだ。

 

これにより、試合勘の向上スピードは加速すると思われる。

 

生きてる間に生まれ変わる。