今に、一生懸命、生きる。
そんな自分でありたいと私は思っているらしい。
人と比べることなく、いや、比べちゃうこともあるけど、自分なりの、自分が納得する、一生懸命だ。
なぜか。
それは、生きていることを実感したいからだ。
「今、俺は、生きてる」
そう感じたい。
ん?
今、これを書きながら思った。自分が生きていることを実感できる時とは、どんな時だ?本当に、今に一生懸命な時だけだろうか?それだけではないかもしれない。
私の場合、2つありそうだ。
- 誰かと心の通った対話をしている時
- 目的を果たすために必死になっている時
前者には相手が必要だ。後者はひとりでもできる。
どちらか片方だけでも、生きていることを感じることができるが、両方を同時に満たしている時が一番強く生きていることを実感できる。
テニスのガチ練やガチ試合はまさにそれだ。テニスコート上では初めから最後まで生きている実感を持てる。
そうか、だからやめられないのだ。
また、時間的には多くはないが、家族と対話している時もそれだ。昨日は久しぶりに息子と家の中でミニチュアバスケットボールを投げ合って遊んだが最高に生きている実感が持てた。
そして、仕事で同僚たちとひとつの目的に向かって真剣にミーティングしている時やお客さまと商談している時も生きていることを強く実感し、充実感を得られる。
オンライン会議だと少し弱まるが、お互いが顔を見せ合って話せている場合は、わりと強く感じることができる。
逆に、このいずれも満たさない時間は生きていることを実感しづらい、私に取ってはもったいない時間といえる。
例えば、なんとなくスマホを眺めている時間。大小問わず、ディスプレイを眺めている時はあまり生きていることを実感できていない。今こうしてブログを書いている時も弱い。
いや、ディスプレイに限らない。本を読んでいる時もそうだ。その時間が無価値とは思わないが、前述の2つのいずれかが満たされている時と比べると、生きている実感は小さい。
ひとりでカフェでのんびりしている時や食事している時もだ。
そう、近所の同じカフェや食事処に何度も行く理由は、仲の良い店員と気軽に話せるからだ。美容院でも30年近く同じ人に髪を切ってもらっている。
気楽に近況報告できる、その時間に大きな価値を感じているからだ。
また、仕事でもメールを書いている時は弱い。いや、ある特定の相手への目的のあるメールは、いつも本気で書くので、少し生きている実感が持てているかもしれない。それでも、それは顔を合わせて対話している時よりは弱い。
そうか、自分にとって価値のある、重要な時間が何か、はっきりしてきた。
とつらつら書いてきたが、思っていた以上に「一生懸命」より「誰かとの心の通った対話」が重要であることに気づいた。
そうか、そういうことだったのか。
実は私も妻も、割とひとりで行動することを好むタイプで、友達が多い方ではない。誰でも分け隔てなく友達は皆大切にするというタイプではない。
本当に気の合う友達だけを残し、あとは切り捨てるような関わり方をしている節がある。
一方で、息子はそうではない。多くの人に慕われるタイプであり、みんなを大切にし、それぞれとの距離感にはグラデーションがある。
これからは、息子のこういうところを見習っていく。
会社でも、もっと勇気を持って、いろんな人との会話し、コラボレーションを増やしていく。
もちろん家でも。