死ぬとき笑う

だから、自分に正直に、自分のために。

教育現場の問題点と目指したいビジョン

2023年の8月に神奈川から京都まで新幹線に乗って、オンラインで知り合った方々に会いに行った。

 

その方々は皆、西日本の私立の中高一貫校の先生方で、自分と同世代かそれよりも少し若く、現場から日本の教育を変えるために日々活動されている志高い方々だ。

 

私はテニスコーチという立場で参加したのだが、その経験から学び、感じ、行動してきたことが、彼らの考えや活動にとても近く、共感することが多かったのだ。

 

孫泰蔵氏の著書「冒険の書」の読書会をライブ配信するイベントに参加するご縁をいただいたのがキッカケだった。

 

 

彼らと共にいろいろ考え、そして、その後も息子の中学受験などを直近で見てきて、個人的にいたった結論がある。

 

教育現場の問題点は、学力のみで競争していること、勉強以外の選択肢がないことだ。

 

少し前に「競争社会が悪なのか?いや問題は劣等感だ」で書いた通り、正しく向き合えれば、競争は人間にとって最良の成長機会を与える最高の手段だ。

 

だから私は、偏差値という競争の基準があることは悪いとは考えていない。

 

もちろん、何でも競争した方がいいとは思っていない。競争が発生している世界では、その世界で生きることを望む人であれば、それと正しく向き合うことさえすれば、それは素晴らしい世界になると考えているからだ。

 

プロのスポーツはまさにそれだ。そこにはドラマしかない。

 

また、こうも考えている。人間にとって重要なことは、何をやるかではなく、どこまでやるかだ。深さが重要で、やることは何でもいいのだ。勉強でもいいし、勉強じゃなくてもいい。

 

何をやっても、深くその世界にのめり込めば、人間にとってもっとも重要な部分を成長させることができる。

 

では、その人間にとってもっとも重要な部分、すなわち、幸せになるために必要なものとは何か。

 

それは「人間性」や「人間力」と言われているものだろう。「学力」ではない。

 

東大を出ても不幸な人はいる。東大を出ていなくても幸せな人はいる。

 

本当に必要なことは、学力ではなく人間力だ。

 

そして、人間力は、何をやっても身につく。深く追求すれば身につくのだ。その過程に競争があってもなくてもどちらでもいい。競争があった時は、正しい姿勢で向き合えばいいだけだ。

 

つまり、教育現場では、子供たち個々人が興味を持ったすべてのことに、個々人が深く追求していける環境の提供を目指したい。

 

私がコーチをする時は、テニスに興味を持った子供たちが、それと深く向き合える環境を提供している。

 

様々なジャンルのプロの指導者が、学校とコラボレーションすればいい。全員共通の時間割などいらないのだ。

 

大人が用意した環境を、子供が自分の意思で選べばいい。気が変わったら変えればいい。ひとりで何かを始めれば見守ってあげればいい。

 

大人が用意した環境に子供たちをはめ込むのではなく、大人が用意するのはキッカケで、その後は子供たちが有機的に環境を作り上げていくようなものでありたい。

 

その環境がどこに向かうかなど、先生もわかっている必要はないのだ。むしろ、一緒に子供たちの作るそれや子供たちの変化を楽しめばいいのだ。

 

そこには、ワクワクしかない。

 

さらに深まれば、子供たちは学校の外に飛び出して行っていい。学校の限界を子供たちは簡単に飛び越えていく。子供とはそういう生き物だ。

 

どんどん専門的な世界でのめり込めばいい。

 

また、子供たちが帰ってきたければ、いつでも帰って来れる場所でありたい。

 

子供たちは学校の中と外を行ったり来たりできる。それくらい、学校は外と連携した方がいい。

 

冒頭の彼らは、それに近い世界を目指している。私は彼らに期待しているし、応援している。私もテニスやアートを通して力になれれば嬉しい。

 

だから、その道を自ら開拓する手は止めない。