死ぬとき笑う

だから、自分に正直に、自分のために。

競争社会が悪なのか?いや問題は劣等感だ

久しぶりに実家に帰り、母と話していて思ったことを書く。

 

母は競争社会を悪と思っている。それが言葉や態度の端々に出る。

 

「ナンバーワンにならなくてもいいの。もともと特別なオンリーワンだから。あなたは大丈夫」

 

SMAPが歌う前から母は私にそう言い続けてきた。

 

しかし私は、母の言うそれは何かが違うと感じてきた。なんとなく負け犬の遠吠えのように聞こえていたのだ。

 

それがなぜか、昨日ハッキリした。それは、母が競争社会を悪とする理由だ。

 

昨日、母はそれをわかりやすく言葉にしていた。私の息子の中学受験の話をしていた時だ。

 

「今いる小学校で一番ですごいすごい言っても、同じような子ばかりが集まる頭の良い中学校に入ったら、下の方になってがっかりしたりするじゃない」

 

これだ。

 

母は、競争社会を自分が常に誰かと比較されながら生きる社会、あるいは自分を常に誰かと比較しながら生きる社会と勘違いしているのだ。

 

学力が高い人が偉いともてはやされ、低い自分は価値がないと言われているような気がしているのだ。

 

これはとんだ勘違いだ。

 

いや、そもそも、母が話しているのは競争社会の話ではない。劣等感の話だ。

 

そして、以下のような考えにまでは及んでいない。

 

  • 優越感や劣等感を抱く人間は人として未熟で、それは競争社会に呑まれている負け組以上の負け組。
  • 勝ち組で優越感を抱きそれを態度に出す人より、負け組でも劣等感を抱かず自分の生き方に誇りを持っている人の方がよっぽどまとも。
  • 勝ち組でも優越感などは抱かず、周囲の人たちに感謝をしながら生きている人がたくさんいる。

 

3つ目の話を取り上げるなら、野球の大谷翔平や将棋の藤井聡太がわかりやすい例だろう。テニスならフェデラーナダルジョコビッチも皆、人格者だ。

 

大谷翔平が年始の能登半島地震の直後に億単位の寄付をするというニュースを見た時にはヒーローが過ぎやしないか?!とひどく感動した。

 

私はむしろ、競争社会でとことん戦い、トップを走った人の方がむしろ人格者になりやすいとさえ思う。なぜなら、自分ひとりの力でそこに辿り着くことなど不可能だからだ。

 

何もしなくても「あなたは大丈夫。生きているだけで素晴らしい」と言われて生きていける非競争社会では前述したようなレベルの人格者は生まれづらいだろう。格差の最も少ない国(≒ 競争社会から最も遠い国)、スロバキアの国民性をググってみたが、あながち間違いではない気がしている。

 

そしてだ、中学受験の先頭集団を走っている息子からも、既に人格者をにおわす振る舞いや言動を感じている。いや、彼は既に人格者と言えいる。

 

孫のそれなら母も理解できるはずだ。

 

いや、息子だけではない。息子の話を聞いている限り、その先頭集団を走っている仲間たちにはそういう子が多いという。

 

彼らは、敵同士ではない。良きライバルであり、時に励まし合う最高の仲間なのだ。

 

小学生ですでにそういう世界を知っている人間と、70歳になってもそれを知らない人間とでは、そのふたつの人生はまったく異なるだろう。当然、価値観も大きく変わる。

 

念のため言っておく。どっちの方が良い悪いという話はしていない。まったく異なると言っているのだ。

 

自分の人生や価値観が良いか悪いかは、自分で決めればいい。

 

話を戻す。

 

結論、競争社会がいけないのではない。競争社会を盾に子供たちを煽りたてて優越感や劣等感を抱かせてしまうバカな大人がいけない。