死ぬとき笑う

だから、自分に正直に、自分のために。

テニス技術の言語化をやめた

ここ半年くらいだろうか。そういえばテニスノートの更新をしていなかった。

 

iPhoneのメモアプリに作っているテニスノートを、以前はテニスをするたびに更新していたのだ。

 

更新する内容は主に、技術と戦術だった。特に技術で、コツといわれるようなことに気づいては、言語化して書き留めていた。

 

しかし、それをやめた。というか、なんとなくやらなくなっていた。

 

そうなった理由は、「プレー中に考えるべきでないことを考えているかもしれない。そしてそれは、技術を言語化しているからかもしれない」と思いはじめていたからだ。

 

そして、言語化をやめてからの方が明らかにパフォーマンスが向上し、かつ安定していることに気づいた。

 

具体的には力みが減って不自然な動きが減った。

 

これはつまり、私の場合は、「理論」ではなく「感覚」を重視した方がよいということだろう。

 

言語化していたときは、理論を重視し、頭の中は「こうすべき」と固くなっているイメージだ。

 

一方、言語化していない今は、感覚を重視し、頭の中は「だいたいこんな感じ」と変化の余地があるイメージだ。

 

おそらく、これくらいの感覚の遊びというか、余白が必要なのだ。あくまでもわたしの場合。

 

さらにこの感覚は、テニスの頻度を安定させることで維持され、少しずつ最適化されている。その手応えがある。

 

逆に、頻度が減ったり途絶えた時は、その感覚も失われていく。

 

これは、試合勘も同じだ。考えてみれば試合勘も感覚のひとつといえる。

 

感覚とは、何をどのくらい考えると(あるいは考えないと)ちょうどいい結果になるか。脳と運動のバランスをはかる能力といえる気がする。

 

そしてそれは、「だいたいこんな感じ」と感じ取るもので、言語化して考えることではない。

 

これが今のところのわたしの解釈だ。