死ぬとき笑う

だから、自分に正直に、自分のために。

ナダル自伝で学んだことは親のあるべき姿だった

これを読み終えた。

 

 

だいぶ前にこれを読みはじめたとこのブログでも紹介していたが、半分も読まずに積読となっていた。

 

テニスのヒントを得ることが目的だったが、学んだことは意外にも「親のあるべき姿」だった。

 

育児とコーチングは共通する点も多いが、まったく異なる部分もある。

 

私は最愛のひとり息子にテニスを仕込んだ過去があり、大失敗を犯した。


私と遊ぶことで息子が大好きになったテニスを、いやパパとやるテニスを「嫌いになった。やめる」と言わせてしまったのだ。

 

息子は小学2年生までに、フェデラーに憧れて片手バックハンドを自らのチカラで習得し、オレンジボールのワンデートーナメントで3回も優勝するほどに上達し、心からテニスを楽しんでいた。

 

にも関わらずだ。

 

この時は、自分の愚かさに腹が立ち、本当に情けない思いをした。息子と楽しくテニスをする理想のおやから、息子にエゴを押し付ける馬鹿親に成り下がったのだ。

 

これは、今もわたしの人生最大の汚点で、戒めのために記憶に貼り付けたままにしている。

 

詳細は次の記事で書いた通りだ。

 

 

そのキッカケは、そう言われた半年ほど前に次の本を読んで影響を受けたからだった。

 

 

ナダルのコーチのトニ・ナダルは超がつくほど厳しいことを常にナダルに要求する、しかしナダルにとって最適で最高のコーチで叔父だった。

 

この本を読んでから、息子に対する自分の態度が少しずつ変わっていくのを感じながら、それを改めることができなかった。

 

私は息子の叔父ではなく、父親なのに。

 

最後は度を越し、公園で息子に向かって怒鳴り散らしていた。

 

今、ナダル自伝を読み終え、もしあの時こっちを読んでいれば、息子の今はまた違うものになっていただろうと思う。

 

ナダル自伝には、全体の3%程度に過ぎないが、ナダルの両親のそれぞれの振る舞いが記されている。

 

それは、わたしが大失敗を犯してから身に染みて学んできた親の役割と目指すべき立ち振る舞いそのものだった。

 

その記述のあるページを読むと感動して涙を堪えるのが大変だった。

 

この失態の後だったか、たしかまだ小学3年生の息子に言ったことがある。

 

「人も鳥のようにいずれ巣立つんだ。自立して、家を出て、ひとりで生きていくようになる。そうすれば、パパやママに口うるさく注意されることもない。お前も早くそれを目指すといい」

 

私の言い方は、巣だったらもう帰ってこなくていい、そういったニュアンスを含んでいたし、そう伝わったと思う。実際それくらいのつもりで私は言っていた。

 

それを聞いた息子はたしかこう言った。

 

「そんなの嫌だよ。パパとママとずっと一緒にいる」

 

100人いれば99人の子どもがそう言うだろう。それくらい、当たり前の子どもの心理もわからない父親だった。

 

ナダル自伝を読んで、私の考えは変わった。そして昨日、小学5年生になった息子に伝えた。

 

「パパ、以前、いつか家を出ろと言ったよね。けど、考えが変わったよ。家族の大切さを最近理解しはじめた。パパの考えは間違ってた。お前は、これまで通り、家を出て、さまざまなことにチャレンジすればいい。けど、帰ってきたくなったら、いつでも帰ってくればいい。パパはいつでも喜んで迎え入れる。ナダルの本を読んで、考えが変わったんだ。家族の大切さを理解したよ」

 

それを聞いた息子は、本当に嬉しそうな目をしていた。

 

コロナ禍で孤独に陥る人が増えていることを感じていた。症状のある感染者だけではなく、症状のない陽性者やその濃厚接触者までをも隔離することに躍起になる日本では特にそうだ。

 

だから、家族という最小のコミュニティこそが、最高に大切でかけがえのないものだと考えるようになっていた。

 

そんな中、この本を読んだ。ナダルは、そしてナダルの生まれ故郷でスペインのマヨルカ島にあるマナコルという小さな町の人たちは、コロナに関係なく生まれた時から、自分の心に正直に、家族との何でもない日常を大切にしていた。

 

そして、私の中で、コロナ禍で気づいたことが確信に変わった。

 

この本には、感謝しかない。