「きっと持って生まれた才能があったんだろうね」
野球の大谷翔平選手、ボクシングの井上尚弥選手、将棋の藤井聡太五冠。
天才と言われる人たちを見ているとそう言いたくなります。
例えテレビで有名な天才ではなくても、その町で一番の子を見れば同じようなことを思います。
「あいつにはきっと持って生まれた何かがあったんだよ」
いや、私はそんなものはないと考えています。
私の息子は、町で一番ではありませんが、他の子供やその親たちに冒頭のセリフを言われるような子です。
勉強好きで、自ら望んで難関中学校を目指し、月に3回ある塾のテストは毎回偏差値60〜70、算数オリンピックファイナリスト。サッカー好きで、レアル・マドリードスクールの選抜クラス所属、市のトレセンメンバー。
親の私から見ても、息子の能力は高く、事実、結果を出しているので将来は有望だと思います。
町で一番ではありませんが、「やっぱ持ってる子は違うよね」と言われるだけの輝きを放っているのは確かです。
そんな息子を私は一番近くで見てきました。
そして言い切れます。
「彼がそうなったのは、そうなるだけのことをしてきたからであって、持って生まれた才能があったからではありません」
「そうなるだけのこと」とは、「量」だけではなく「質」もともなった「活動」です。
わかりやすく言えば「正しい努力」です。
息子自身はやりたいことに夢中になっているだけで、努力しているとは考えていませんが。
多分、その町で一番の子の親も、テレビで有名な天才の親も、「生まれながらに持っていた才能があったからこの子はこうなった」とは言わないと思います。
「そうなるだけのことをやってきた」
そう言うと思います。
そもそも、優れた他人を見て「きっと才能があったからだろう」と考えることが、自分の人生にどんなメリットをもたらすのでしょうか。
それは、自分の成長を止めようとする動機づけにしかなりません。
自分だけでなく、自分の子供の成長まで止めます。「自分には無理」「自分の子供には無理」そういった暗示にしかなりません。
自分は負け組であると認めているようなものです。
自分や他人の才能の有無など考える必要もなければ、価値もない。
私はそう思います。
さて、それとは別の議論として、才能とは何か?
私の考えは、次のnoteにわかりますくまとめられていました。
私のように、まだ大した結果は出せていないけど挑戦を続けている人は読んでおいて損はないと思います。
誰にでも、正しい努力をやり切れば、なりたい自分になれる可能性がある理由がそこには書かれています。
それではまた!