死ぬとき笑う

だから、自分に正直に、自分のために。

ばあちゃんの死で人間の闇を見た

先日、ばあちゃんが死んだ。

 

4人いたじいちゃんばあちゃんの最後の1人だ。

 

老衰で眠るように死ぬとはまさにこのことなのだろう。ばあちゃんを羨ましく思った。やっぱり健康は第一だ。

 

同時に、人間の闇を見た。

 

子孫を持つ老人の死は、その子供たち家族間の価値観の違いを浮き彫りにし、憎しみを生むことがある。

 

今回、それを目の当たりにした。

 

死んだばあちゃんにはともに結婚し家族を持つ長男と長女がいる。

 

この長男と長女の家族間の闇を見たのだ。

 

私の母はこの長女だ。

 

ちなみに、私には弟と妹がいて、3人とも家族を持っている。

 

人が長生きすると、それを支える次の世代にはそれなりの負荷がかかる。

 

特に嫁姑の関係にある姑が長生きする場合のその嫁の苦労は計り知れない。

 

我慢してすべてを受け止めてしまうタイプの嫁だと尚更だろう。

 

死んだばあちゃんの長男の妻、つまり私の伯母はまさにそんなタイプですべての苦労を被っていた。

 

そして、ばあちゃんがもう長くないという頃から、その伯母と私の母との間にはなんとも言えない空気が漂っていたのだ。

 

いや、もしかしたらもっと以前から、その空気はあったのかもしれない。

 

わかりやすく言えば、伯母が葬儀も含め、何から何まで苦労を被る中、母は特に苦労もせず、図々しくばあちゃんとの最後の思い出づくりに励んでいたのだ。

 

伯母が母のことを良く思っていないことは良く伝わってきていた。

 

しかもこのふたり、価値観が180度違うタイプだからお互いを理解し共感することは不可能だった。

 

母も伯母が自分のことをよく思っていないことを感じていたが、伯母の価値観で行動することができないため、何をやっても裏目に出ていた。

 

母の価値観は特殊で少数派のため、母が悪いと考える人は自ずと多くなる。

 

例えば、私の妻や弟の嫁は実際にそう思っていた。

 

少数派の価値観は悪い。

 

「みんな同じ」「右向け右」を良しとする日本にはよくあることではある。

 

しかし、私は、これではもう日本は良くならないと考えている。この考えが日本を衰退させたし、価値創造できない大人を量産してきた。

 

個性の尖ったいろんな人間が社会をより良いものに変えていく。

 

価値観の違いを問題にしない方法は「認め受け入れる」か、それができなければ「関わらない」のいずれかしかない。

 

親族の問題なら後者は縁を切るということだ。

 

人は大人になったら価値観を変えることはできない。我慢して生きるのも愚の骨頂。だからこの2つしか解決策はない。

 

家族間の価値観の違いを良し悪しで考えはじめたら親族関係は終わるということを今回学んだ。

 

終わらせなければ、縁を切らなければ泥沼化する。

 

そして、次は自分達の番だ。父と母が死ぬ時、私と弟と妹の価値観の違いは必ず浮き彫りになる。それを我々当事者がどう考えるのか。

 

「自分達の時は価値観の違いを良し悪しで考えるのはやめよう」

 

葬儀の後、兄妹3人でそう意識合わせはした。

 

あとは、3人がそれぞれの伴侶にそれを話し、理解してもらわなくてはならない。